蛇紋岩

ソーナは嵐季前の休暇は私の家に遊びに来いとミズハを誘う

夕餉の鐘が鳴り、就寝までのわずかな自由時間だった。修道女たちの厳しい視線が緩むその一瞬を狙って、ミズハはソーナと館を抜けだした。

向かう先は、いつもと同じ神殿の裏手。しかし今日は、いつもの隠れ場所よりもずっと先を目指さなければだった。

ごつごつとした黒い溶岩が、固まった波のようにうねりながら広がる溶岩原を抜ける。普段なら塔の上から眺めるだけだった、荒涼とした風景だ。足元が悪く、時折強い海風が煽り、簡素な僧衣では肌寒い。

 「ちょっと、 いったいどこまで行く気なの?」 とうとう堪えきれなくなったソーナが、不満の声を上げた。「なんで海なんて見に行かなきゃいけないのよ。寒くて、退屈なだけじゃない」

「いいから」 ミズハは振り返らず、前だけを見つめて答える。その横顔は、いつもの物静かな彼女とは違い、何か大切な使命を帯びたかのように真剣だった。

溶岩原を抜けると、黒い砂と奇妙な形の岩が広がる海岸に出た。波の音と風の音が、まるで誰かの囁きのように辺りに響いている。その、世界の果てのような景色の一番端に、ひときわ大きく、滑らかな黒い溶岩石が鎮座していた。

「着いたわ…」 ミズハが息を切らしながら指さした先で、その「眠りの石」は、まるで太古から二人を待ち続けていたかのように、静かに佇んでいた。

「変な形の岩ね。曲がった顔みたい」 活発なソーナは、その自然が作り出した見事な造形に目を輝かせた。退屈な神殿とは違う、荒々しい本物の世界。彼女は助走をつけ、その滑らかな岩肌をよじ登ろうと、ぴょんと飛びついた。

「だめ!」 

ミズハが、今までソーナが聞いたこともないような、鋭く、ほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。その必死な声に、ソーナは驚いて動きを止め、岩から手を離す。 「なによ、大きな声を出して…」 少しむっとしたソーナが文句を言うよりも早く、ミズハが駆け寄ってきた。 

「勝手に、動かしちゃだめ。触っても、だめ」ミズハは、まるでソーナが恐ろしい獣にでも触れたかのように、青い顔で言った。

「誰も見てないじゃない。それに、誰のものでもない石でしょ?」ソーナは呆れて肩をすくめる。

 「ううん」ミズハは真剣な顔で首を振った。「隠れているだけ。ずっと、見てるのよよ」

その声には、神殿の教えとは違う、もっと根源的な畏れと敬意が宿っていた。ソーナは冗談を言っているのではないことを悟り、黙って岩から一歩後ずさった。

ミズハは、ソーナにこの場所の掟を教えた。眠りの石は、隠された民たちの家そのものであること。だから、決して触れてはいけないこと。敬意を払い、石の麓に供え物をすること。 

「少し待ってて」 ミズハはそう言うと、大事そうに抱えてきた古い革の鞄から、二つのものを取り出した。一つは、聖なる火壇の灰が詰められた布袋。そしてもう一つは、分厚い表紙の、古びた一冊の本だった。

彼女は眠りの石の根元、滑らかな地面にひざまずくと、本のページを慎重にめくり始めた。そこには、彼女たちが神殿で学ぶどの紋様とも違う、古代の印と文字が描かれていた。ミズハは指先にそっと灰をつけると、手本となる本の一節と、目の前の地面を交互に見比べながら、息を詰めて模様を描き始める。それは「敬意」と「挨拶」を意味する印だった。

ソーナはその光景に見入っていた。それがナギとは異なる儀式だと直感した。自分の知らない深い知識と、古くから続くであろうその所作に、引き込まれた。

 「…何を、してるの?」ソーナは、儀式の邪魔をしないよう、声を潜めて尋ねた。

ミズハは顔を上げず、灰で描く指も止めずに答えた。「隠された民たちに、ご挨拶してるの。新たなる仲間について」

ミズハは描き終えると、布袋をソーナに差し出した。「ソーナ、あなたの紋様をここに描いて」

ソーナはおずおずと灰を受け取った。しかし困った顔をした。

「私の家の紋様……?」

戸惑うソーナの手をとって、ミズハは一緒に描き始めた。「風と櫛、どこまでも自由に吹く風と、編む櫛」

描き終わるとミズハは言った。

「親愛なる友人、岩に隠れた兄たち。ここに新たなともを迎えさせてください、その衣食を許し、土地に住まうことを許し下さい」

ソーナは、その光景をじっと見つめていた。ミズハの世界と自分の世界が、確かに今、繋がった気がした。 

何も言わずにもと来た道を引き返すミズハの後ろをソーナは追った。自分よりもずっと進んだ知らない世界をしっていて尊敬できた。

何をいってもミズハは返事をせず、ただ黒い岩に自分の声を吸い込むだけだった。だんだん何かにみられているかのような気になって、ミズハの後ろにぴたりとついた。

ようやく黒い岩場を抜けると、どこか悔しい気持ちがこみあげてソーナは言った。「ねえ、やっぱりあなたって、変わってるわ。どうして、あんなことを知ってるの? 眠りの石とか、隠された民とか…あれって、女君院で教えてもらうこととは違うでしょ?」

陽が傾き、空を覆う分厚い雲が、鈍い鉛色から深い藍色へとその表情を変え始めていた。夕餉の鐘が鳴る前に戻らなければならない。ミズハとソーナは、並んで溶岩原を歩いていた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、今はただ、遠くなる波の音と、二人の足が砂利を踏む音だけが聞こえる。

ミズハは辺りを窺い、誰もいないことを確かめると、意を決したように口を開いた。 

「…私は灰の子って呼ばれてる」 

「灰の子?嫌な名前ね」 

「導母さまたちは、こっそりそう呼んでいる。でもそれについて何も教えてくれない。何回尋ねても、嫌な顔をするばかり。だから私は調べたの」

 「調べた…?」

 「そう」とミズハは力強く頷いた。

「灰の子って、一体何なのか。この星の嵐や海が、何を意味するのか。嵐に関係している本は全部読んだの。漁師たちの言い伝え、沿岸の古い地図、そして、忘れられた民話…。隠れた民のことも、そこに書いてあった。嵐を呼ぶのも、それを鎮めるもの」

ソーナは驚いていた。本なんて、まだ自分で進んで読んだこともない。 

「でもね」とミズハは声を潜め、その表情に子供らしい不安の影が差した。

「こういう古いお話は…神殿ではしない方がいい。だから、これは…二人だけの秘密」 

ソーナは、ミズハのその告白を黙って聞いていた。そして、全てを聞き終えると、呆れたように、でもどこか嬉しそうに、大きなため息をついた。 

「そう、つまりあなたは……退屈な神殿にいるうちにおかしくなったのね」 ソーナはくるりとミズハの前に進み出ていった。

 「それより、休暇よ、休暇! 絶対に、私の家に来てちょうだい。約束だからね」

ソーナは、ミズハが背負う運命も、神殿の掟も、すべてを吹き飛ばすように笑った。彼女にとって重要なのは、ミズハが「灰の子」であることではなく、目の前にいるたった一人の友人が、自分にだけ、その胸の内に秘めた最大の秘密を打ち明けてくれたという事実だった。

 「…うん」 ミズハは、今度こそはっきりと声に出して頷いた。神殿の冷たい掟よりも、孤独な探究の果てに見つけた真実よりも、目の前にいるたった一人の友人の、温かい約束の方が、ずっと確かで、信じられるものに思えた。