会議室の扉が閉ざされた後、ヴェレナは踵(きびす)を返した。その足は、祈るように、神殿の中枢、アデア導母長の執務室へと向かっていた。扉の前で一度だけ躊躇し、心を決めると、静かに扉を叩き、中へ入る。導母長は疲れた顔をして椅子に座っていた。その目に驚きはなく、ただ静かにヴェレナを見つめている。
ヴェレナは、アデアの机の前で深く頭を下げた。 「導母長様。先ほどの内容、どうか…考え直してください」 ヴェレナは歩み寄った。 「あんまりにも残酷です。あの子はずっと楽しみにしてきたのですから」
アデアは、疲れたようにこめかみを押さえた。 「…顔を上げなさい、ヴェレナ。あなたが、ただの感傷で私に意見しに来るような人間でないことは、よくわかっています。ですが、あなたに任せたあの日と、事情は大きく変わってしまったのです」
ヴェレナは顔を上げた。「かつて、わたくしが許されざるわがままを申した時…あなたは、わたくしを許し、ここへと導いてくださいました…どうか、あの子にも機会をお与えください」
その嘆願を聞き、アデアは初めて、深い、深い溜息を漏らした。それは、失望と、そして長年の疲労が入り混じった音だった。 「ヴェレナ。あの時、私があなたを迎え入れたのは、あなたに世俗の器に収まりきらぬ光を見出したからです。そして、その輝きを、生涯をかけて神殿に捧げると、あなたは誓った」
アデアはおもむろに引き出しを開け、一通の封蝋された手紙を取り出した。 「事情は悪い方にばかり変わるものではありません」 彼女はその手紙をヴェレナに差し出した。
「アランデル家からです。今まで送ったのは何通だったか。ようやく少しだけ風向きが変わったようです。あなたは、どうあってもアランデルの『当代』ですからね」
氷晶と茨を背負う者、西砦地区の統治者にして、アランデル家当主、アラリック・アランデルは、ナズ女君院に在籍する導母ヴェレナに対し、以下の通達を布告する。
一、アランデル家は、ヴェレナが過去に行った選択を、家の歴史における公式な「逸脱」として記録するも、その責を永久に問うものではない。
一、これに基づき、個人に帰属する資産と名誉の一部について、次項に定める責務の履行状況を慎重に吟味し、当主の裁量をもって段階的な権利回復を認めるものとする」
ここまで読んで、ヴェレナの顔が緩んだ。しかしそれはすぐに翳った。
一、上記の権利回復の履行にあたっては、導母ヴェレナが、ナズの女君院内においてアランデル家の権益と名誉を代表する者として、その立場を自覚し、適切に立ち振る舞うことを絶対の条件とする。
和解の打診などではない。神殿内部に、アランデル家のための拠点を築けという、明確な要求だ。
アデアは立ち上がり、ヴェレナのそばに近寄ると、その肩に手を置いた。「他者に自分の過去を重ね合わせる、それはその者を燻ぶらせるのと一緒です。慈愛との区別が必要です」 アデアは言った。
「これは好機です。あなたのその強すぎる想いを、アランデル家との関係修復を目指してはいかがです? その援助が入るようになれば、周りにも意見が通りやすくなるというものです。懇願することしかできない、今の状況とは違って」
「これではまるで……密偵か何かになれと言われているようです」ヴェレナは、目の前に立つ恩人の顔を、まるで初めて見るかのように見つめながら言った。彼女の美しい眉は、信じられないという思いに、かすかにひそめられている。
私は間違っているとも思っている
そのための土台が必要なのです
アデアは、その問いを待っていたかのように、静かに首を振った。 「いいえ、ヴェレナ。盾を手に入れるということです、大切なものを守るための。」
「盾…ですか。わたくしには、自らを再び売り渡すための値札にしか見えませんが」
「再び?」アデアが目をとがらせて、ヴェレナのことを見た。
ヴェレナは声を静めていった。 「わたくしが忠誠を誓ったのは、この神殿です。茨と氷晶は、お返ししたのです……」
「その忠誠の示し方について、話しているのです」 アデアは、諭すように言った。 「今会議で、ロクリッサに感情的にするだけ。今のあなたは、懇願することしかできない、あまりに無力。私はそれでもかまいません」
アデアは一歩、ヴェレナに近づいた。その瞳は、逃げ道を塞ぐように、まっすぐにヴェレナの心を射抜く。
アデアは、ヴェレナの握りしめた手をほどき、そっと手紙を抜き取った。 「何かを守りたいと願うなら…あなたほど聡明な女性ならわかるはずです」
アデアはそう言って手紙を再び引き出しにしまうと、鍵をかけた。
ヴェレナは唇を噛みしめ、何も言えずに、ただその場に立ち尽くしていた。
その沈黙を肯定と受け取ったアデアは、すっとヴェレナから離れると、再び執務の顔に戻った。 「近いうちにウェノマトルの、嘆きの淑女館へと向かいなさい。女主人はヴォランド家の者です、緑衣の夫人と呼ばれている」
「…デイム・モルウェナ、ですか?」
「今はレディーです」 アデアは、一度も振り返ることなく、事務的に告げた。 「アランデル家はすぐには直接会ってくれないでしょう。まずは彼女を通して、交渉の糸口を探りなさい」
それは、もはや議論の余地のない、決定事項だった。 ヴェレナは、ただ深く頭を下げ、その場を去ることしか、許されていなかった。彼女は、ミズハを救うための嘆願に来て、逆に、自らが捨てたはずの過去と向き合うための、最初の任務を与えられたのだ。
ヴェレナは思わず立ち止まり、冷たい石の壁に手をついた。視界がぐらりと揺らぐ。ミズハを巡る策謀、アデアの冷徹な眼差し、そして自らの無力さ。それら全てが混ざり合い、消化しきれない毒となって、彼女の身体を蝕んでいた。このままでは、倒れてしまう。
彼女は震える足で、神殿の片隅にある薬草室へと向かった。そこは、権力闘争の喧騒からは最も遠い場所だった。
薬草室の扉を開けると、乾燥させた薬草の独特な香りが、淀んだ彼女の思考をわずかに解きほぐした。天井からは何種類もの草花が吊るされ、壁の棚には様々な大きさの硝子瓶が整然と並んでいる。部屋の主であるシスター・エラーラが、薬研で静かに何かをすり潰していた。
「…ヴェレナ導母。顔色が??のようですわ」
エラーラは作業の手を止め、その穏やかな瞳をヴェレナに向けた。彼女は神殿でも年長のシスターで、その皺の刻まれた顔は、長年、多くの導母たちの心と体の不調をみてきた証だった。
「少し、めまいがしただけです…」
「お座りなさいな」エラーラはそう言うと、ヴェレナの腕を支えて古びた木製の椅子に座らせた。そして、手早く調合した白湯を差し出す。湯気と共に、鎮静作用のあるカミツレの香りがふわりと立ち上った。
「心労が、そのまま身体に出たのでしょう。この神殿は、時として人の魂をすり減らしますから」
エラーラの言葉には、全てを見透かすような優しさがあった。ヴェレナは何も言えず、ただ温かい白磁の器を両手で包み込んだ。
しばらくの沈黙の後、エラーラが口を開いた。その声には、思い出したような響きがあった。
「心労はあの子のことでしょう、ミズハです」
ヴェレナは、はっとして顔を上げた。
「あの子、この頃、神殿の裏手…あの溶岩原の先で、一人で遊んでいるのを時々見かけるのです」
「裏手…?眠りの石がある、あのあたりですか」
「ええ」エラーラは頷いた。「ご存じでしょう。私自身が海藻やなんかを取りにいきますが、危険すぎるのです。あのあたりは足場が悪いうえに、嵐季でなくとも波が強く、満ち潮時には岩場をほとんど洗ってしまう。導師たちですら、用がなければ滅多に近寄らない危険な場所です。それなのに、あの子はまるで自分の庭のように…」