「……すみません、そこ。足元にキューブが置いてあるので、気をつけてください。簡単に欠けますから」
「失礼。……しかし、これだけの数があるのに、本当にどれも空なんですね。これだけの水槽があれば、一つくらいは水草でも育てていそうなものですが」
「よく言われます。でも、僕は魚が飼いたいわけじゃないんですよ。水槽そのものが好きなんです。水を入れると、どうしても管理の対象になってしまう。苔が生えれば掃除しなきゃいけないし、魚が死ねば捨てなきゃいけない。それはもう、趣味じゃなくて労働ですから」
「コレクター、という理解でいいんでしょうか。メーカーとかにもこだわりがあるんですか?よく分かりませんが」
「中古で安く出ているものを見つけると、つい手が伸びてしまうんです。前の持ち主が使い古して、シリコンが少し劣化しているくらいの方がいい」
「さっきからずっと磨いていらっしゃいますね」
「癖みたいなものです。ガラスというのは不思議なもので、皮やなんかのように、使い込めばいいとはいかないんです。その代わり、境界線だけが刃物みたいに鋭くなる」
「正直落ち着かないです。どこを向いても自分の顔が映り込んでいるし、距離感が掴みづらい」
「それは、あなたが中身を探そうとしているからですよ。インタビューのネタとか、僕の私生活の痕跡とか。そういうものを一切期待せずに、ただの透過率の違う空気だと思えばいい。ほら、そこの水槽越しに僕を見てください。少しだけ、像が青みがかって見えませんか」
「……確かに、わずかに色が違いますね。厚みがあるせいでしょうか」
「10ミリ厚のフロートガラスです。これだけの枚数が重なると、部屋の反対側はもう、現実とは違う色味になっている。僕はただ、この微妙な色の重なりの中に座っていたいだけなんです。何かを付け足すんじゃなく、ただ枠を置いて、そこにある空気を区切っていく。」
「失礼ですが、他人から見れば、整理どころか足の踏み場もない物量に見えると思いますが」
「物理的なスペースの話じゃないんです。……まあ、理解されにくいのは分かっています。孤独な男が透明な檻に閉じこもっているとでも書けば、格好がつくでしょう?」
「……。今のところ、そう書くのが一番収まりが良い気がしています」
「正直でいいですね。でも、僕は閉じこもっているつもりはない。むしろ、このガラスを通して、外の世界をより鮮明に、細かく切り刻んで眺めているつもりなんです。……さて、そろそろお茶でも淹れましょうか」