センセイ方がこのマンションについて解説する、あの自己陶酔的なロマンティシズム――『居住と生産の不可分性』だのといった空虚なポエムが、僕にはどうしようもなく愛おしいんですよね。だって、彼らがまず行うのは「言葉」という名のレッテルを選定することですから。
使い古されたレトリックは実から目を逸らすため、それを安全な「建築学」の温室へと運び込もうとする。だが、象牙の塔に座る賢者たちが、安楽椅子の背もたれに身を預けながら夢想するロマンティシズムの裏側で、本当の姿や真意など到底理解できるはずがないんです。
真意をはき違え、薄っぺらな意味付けと、彼らの言うところの建築という世界の中で解釈しようとする。これは「建築」ではなくて。彼らの定義する建築そのものを攻撃するための、多孔性ともいえるウイルス的存在なわけです。
皮肉なことに、この無計画な増殖こそが、脱構築主義という実践であって、それは、ある種のバタイユ的な『蕩尽』——すなわち、目的を失ったエネルギーの純粋な浪費であり、意味の回路を焼き切るための祝祭ともいえます。だけど、学者がそこに「環境論」や「構造的必然」という名のパッチを当てようとすればするほど、実態は繰り返される無機質なミームのように、文脈を剥離させ、自己模倣を加速させていく。
禁止されたスロープに執着し、コンクリートを継ぎ足すその動機は、創造ではなく、システムへの放蕩的な愉悦です。
管理人が物理的な欠陥をコンクリートで塗り固め、学者が論理の空隙を難解なレトリックで埋め合わせる。その二重の隠蔽工作によって、意味のないフロアが積み上がり、巨大な迷宮が完成する。だが、その壁の厚みがどれほど増そうとも、中心にあるのは「不在」であり、王のいない玉座なわけです。実体と言説が互いに尾を飲み込むように増殖するこの渦に、自ら身を投じることのできな愚者であり賢者。
空虚な中心を囲む迷宮そのもの。実体と言説が互いに自己増殖を繰り返すこの構造こそが核。
いいですか、僕がこうして反建築的な論考を組み立てていること自体が、現代建築という空虚なシステムがすでに瓦解している証拠なんですよ。ポエムで塗り固められた虚構を、脱構築という名の実践で証明する。それこそが、僕がここにいる理由なわけです。