きっかけは、一粒のアーモンドだった。
僕はその頃、ストイックな健康生活を送っていた。毎朝、一粒のアーモンドを一粒食べる。研究者として例に漏れず、将来というものにぼんやりとした閉鎖感を抱いていたころだったし、体も昔ほどは元気じゃないって事に気が付き始める年齢だった。
それだけ。僕にとって、削ぎ落とした食性は、思考をかなりクリアにしてくれた。
ある朝、いつものようにアーモンドを手に取った。その素朴を味わっていると、ポツポツと涙がでた。
多分2週間くらい経った頃だったと思う。茶色くて、楕円形で、表面に細かい皺がある一粒。でも、その日は違った。
一粒って、何だろう?
物理学者の僕は知っている。このアーモンドは、無数の原子で構成されている。細胞があり、分子があり、素粒子がある。しかしどこからどこまでが一粒なのか?
言語学者の僕も知っている。アーモンドという音の連なりは、目の前のこの物体とは何の関係もない。ただの約束事だ。恣意的な記号。
一粒のアーモンドという、あまりにもシンプルな記号すら、よく分からないということが分かった。
ここで飛躍するんだけど、恒星系間の通信が行われるとしたら?それはイスクイルのような言語を用いるだろう。
それこそが僕のテーマのようだった。くじら座タウ星、12光年先。もしかしたら、そこには、正確な言語を求める知性がいるかもしれない。
この瞬間、僕は地球で唯一、この試みをしているだろう。
一粒のアーモンドが玉璽にも見えたあの瞬間、孤独と恍惚は驚くほど近い存在だと知った。
12年後、もしかしたら返事が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいい。
私はこの部屋の静寂の中で、全宇宙へ向けた論理の矢を放つ準備を整えている。
机の上には、特製の送信機と、複雑なスロット構造を網羅した文法表が広げられている。96の音素と数千の形態素を組み合わせ、私は実存という概念を、一片の無駄もない論理構造へと圧縮していく。
今、私の関心は、くじら座タウ星へと向かう信号のみである。