母イルダがいる砦の最上階の窓が見える。暗い。カーテンが引かれたまま、もう八ヶ月になる。食事は運ばれる。返事はある。しかしドアは開かない。
メクマトはその窓から目を離した。あれから10年が経つ。風で窓が軋む。凍土の上を渡る風は、建物の角に当たると金属を引っ掻くような音を立てる。
階下で音がした。館の者たちが動き始めた時間だ。食堂に火が入る。粥が煮られる。報告書が運ばれてくる。
螺旋階段を下りると、厚い石壁に囲まれた廊下にでる。薄暗く、。磨き抜かれた床に響くのは、彼自身の長靴の音だけ。
邸宅の北翼、かつての古い砦の土台をそのまま引き継いだ塔が母の居室だった。 北向きの窓には、オストメレクの峻厳な山々と、黒々と広がる針葉樹林が映る。回廊を回り、塔へと続く重い樫の扉の前には、ナブラが立っていた。
齢は五十近い小柄な老女だった。今日もまた、濃紺の重いウールショールを深く肩に巻いている。メクマトが産着に包まれていた頃から、彼女は母の影としてそこにいた。幼い記憶の中では見上げるほどだったその背中も、今ではメクマトの胸の高さにまで縮んでいる。
「様子はどうだ」と、メクマトは声を落として尋ねた。
「お変わりございません」 ナブラが応じる。
二人は重苦しい沈黙を纏い、母イルダの居室へと進んだ。
煤け、黒ずんだオーク材の扉が立ちはだかる。しかし、この扉はもはや物理的な錠など必要としないほどに、内側から深く閉ざされていた。
「食事は、喉を通っておられるか」
「半分ほど。スープを少々、残されております」
「できるだけ食べるよう説得してくれ。すぐにウェノマトルへ発つ。4週間、この砦を空けることになる」
「存じております。若い旦那さま」 ナブラは淀みなく答えた。その鋭い眼光が、薄暗い回廊の中で冷たい光を放ったように見えた。「コーツ家のソルヴァをお迎えにあがる」
かつての上質な濃紺のローブは、今や幾度もの洗濯と酷使に耐えかね、袖口は擦り切れ、生地の光沢は失われている。
「……何か入用なものはあるか」 メクマトは、母の扉を一度見つめてから言った。「聖都には何でもあるだろう。お前と母上に、何か相応しいものを買ってこよう」
ナブラは、その擦り切れた袖を隠すようにショールを強く引き寄せ、小さく首を振った。
「旦那さま、私などは後回しです。それよりも、どうかお忘れなきよう。聖都への遠征は、ただの旅行などではありません」
彼女は声をさらに低くした。かつてのあまたの女官を束ねた厳粛であり、幼いころのメクマトに対して、ごくまれに使った、厳しい口調だった。
「……どういうことだ、ナブラ」 メクマトは言った。 「正当な婚姻によって、ようやく僕はコーツの正当な一員となるのだろう」
「それはおっしゃる通りです。しかし……」
「しかし何だ?」
「ナズ……彼女が聖都で授かるその称号の意味が、かつての古語の時代になんであったか知っていますか」
メクマトは息を呑み、視線を落とした。
「それは、なんだ?」
「……密偵です。この先、貴方のあらゆることを見通すでしょう。コーツという家産と資産を守るために」
メクマトは困惑した。聖都で修練した女君は、ただの淑女ではないとは知っていた。
「……何が言いたい。女君ならソーンヒルに沢山いたし、母もその一人だろう。毒にも薬にもならん」
「見誤ってはいけません。一切の謀、隠し事は通用しません。わずかな瞳孔の開きから、背後の嘘と野心を見抜く」
食堂に向かうメクマトの頭には、ナブラの言った言葉がまだ渦巻いていた。この腐敗した工廠を再建することを夢見てきた。ここを基盤として、いずれはソーンヒルを屈服させるほど大きくしてやる。それがメクマトの全てだった。
食堂にはいると、テーブルの中央に、当たり前のようにシャンパンのボトルが置いてあった。当主のベルべク・コーツがグラスを持ち上げた。グラスの縁が燭台の光を受けて光る。
メクマトは席に着いた。シャンパンのグラスが自分の前にも置かれたが、飲む気はなかった。朝に出すシャンパンは唇を湿らせる程度のものだと知っていた。それは無意味な浪費家のやることだ。
「パララウグは?」コーツ家の当主、年老いたベルべクが言う。
「部屋から出てきてないよ。それよりカシム殿からの伝令だ」とヤイルが言った。ベルべクの息子だ。
「手紙によれば、工廠の煙が北まで届かないことを、プノストーの冬の寒さのせいではないかと深く案じておられる。ソーンヒルの流行り文字なのか、まったく女みたいな字を書くから読む気が失せる。……叔父上、どうやらあの男はここへ来る理由を探しているようだ」
「ばかもの、来られてたまるか」ベルべクが吐き捨てるように言った。「視察なんぞ絶対にさせんぞ。邪魔ばかりするくせに、ここの監督者のつもりでいる。ばかばかしい」
父の築いた工廠は、コーツ家の放蕩者のせいでゆっくりと腐っている。夜会と飽食、そして惰眠。工場を見ることなどめったになく、博打しか興味がない男たちに。指図されてたまるか。 いずれは権限を剥奪し、自分の手で工廠の再興してやるのだ。
ソルヴァとの婚姻は、長年待ちわびた、そのための第一歩だと思っていたのだ。
「あの男が案じているのは、自分の艦隊に加わる軍艦が、死ぬまでに何隻増えるかだけだ」
ベルべクはシャンパンを一気に煽った。早くも赤ら顔になって、慢性的な顔のむくみは日に日にひどくなている。
「返事はこうだ。プノストーは今、記録的な大雪で道が閉ざされているとな。不眠不休で働いているが、馬が次々と凍死しているのだと。……それから、高貴なお体に、この地の卑俗な寒さは毒でございますどでも断れ」
「しかし、大雪など……」ヤイルは訝し気に食卓の右手、壁の上部の出窓をみた。
黒ずんだ真鍮で組まれた格子細工の出窓だ。壁から張り出すように設えてある。内側は暗い。朝でも夜でも暗い。しかしこちらの光は通る。
彼女たちはこちらを観察している、それが責務でもある。女君たちは内の館で暮らし、出外の世界を覗き見る。今夜もベルべクの妻と、その娘セヴラが佇まい、匙が皿に当たる音まで、聞いているのだろう。
新たな皿が届く。根菜と獣脂を煮たものだ。ベルべクは椅子を引く音を大きく立てて座った。
「この冬は荷が滞っています」とベルべクが言った。「北の船が二隻、嵐で帰れなくなりました。沈没しました、工場が燃えました。なんでもいい、書いて出すんだ。あとはよきにはからえだ」
「しかし……、冬ももう終わりかけ」ヤイルはそれ以上言わなかった。格子の向こうの沈黙が、それがベルべクのついた嘘ということまで、記録していることを祈っているのだろう。
「さて、我が息子たちよ」ベルべクが、ねっとりとした親愛の情を込めて言った。その視線は甥であるメクマトを見据えている。
「お前がここにきてから何年になる?」
「ちょうど十年になります」メクマトが答えた。
「そうだ、いよいよソルヴァとの婚礼だ。ナギの教義が定める正統な儀礼を、遂行するのは名誉だが、聖都の慣習はおかしなものばかりだ」
ベルべクは口を一端ぬぐい、ニヤリとして言う。
「神の器たる妻をその手に受けるのだ。メクマト、これでお前は名実ともに、我らコーツ家の一員となり、そしてあのラヴァルの阿呆どもを見返すのだ」
「ええ、なんだか実感がわかないです」メクマトは、自分の言葉が自分の者でないように感じた。昨日までどおりに振舞うことは、意識すればするほどわざとらしいような気がしてくるものだった。
「しかし心配なのは私とソルヴァの事より、新たな作業場のことです」メクマトは、演技をするより仕事のことを話したほうが自然だろうと閃いた。
「聖都までの距離は、早く見積もっても2週間。雪解けが始まっていますが、道中で立ち往生するかもしれず。損耗した高炉を、勝手に使おうとする者が現れないが心配なのです」
「相変わらず仕事ばかりだお前は」 ベルベクは、飲み干したシャンパングラスを給仕に放り投げ、脂ぎった顔をメクマトへ向けた。 「道中、花嫁の膝の上で居眠りでもしてくるがいいだろう」
ベルべクは、まるでよく出来た家畜の背を叩くような手つきで、空中に太い指を振った。実際に真横に立っていたら、バシッと背をたたいたことだろう。
メクマトが言う。「支払いの件も心配です。職人たちは銀で支払えと不満を述べてます。 昨日も第三作業場で小規模なボイコットがありましたから」
ベルベクは、差し出された紙を一瞥もせず、手元の根菜をフォークで突き刺した。
「ヤイル、地下の客は何人になった?」
「昨夜、煽動者の首謀格を二人放り込みました」ヤイルが、スープを啜りながら事も無げに答えた。「一週間もすれば改心するでしょう」
「聞こえたか、メクマト」ベルベクは、獣の脂が光る顔を上げた。「工廠の規律は、主自らが生み出すのだ。お前が配っているあの紙切れ、あれよりいい知恵がお前にあるか?奴らを繋ぎ止めておく鎖を、なぜわざわざ銀に変えてやる必要がある?」
「……しかし、カシム殿への供給が遅れれば、また余計な介入を提案してくるでしょう……」
「だから雪で道が閉ざされたと書けと言ったのだ!」ベルベクがテーブルを叩いた。シャンパングラスが不快な音を立てて跳ねる。
「いいか、修繕の金が必要なら、聖都までの道中で支援者でも探してみればよい」
「高炉など、他の者に任せておけばいい。お前が今、その若々しい腰を振るう相手が高炉だと本気で思っているのか?その年頃で、胸に抱くものなど、他にあろうか。 巡礼で疲れた足腰で、うら若き新妻を歓喜させる前に、果ててしまわぬようにな」
ベルべクが大声で笑った。ヤイルもニヤニヤと笑った。メクマトは顔が赤くなるのを感じた。すっかり亭主としての務めなんて忘れていたが、ふっくらと勃起したものが、ズボンのウールに抑えつけられるのを感じた。
「出発の準備をします。そして、パララウグを連れて行きたいのですが」
ベルベクは唐突に出たその名前に嫌な顔をした。
「あいつを?あの息子か?聖都まで連れて行って何をするつもりだ」
「彼には必要でしょう、見聞というものが。彼に見せてやりたいのです」
「見聞だと? おまえははあのつらに何を見せるつもりだ」
「しかし・・・」
ベルべクはふむ、といった調子で思案する顔。算段しているのだろう。何一つ思い通りにいかない末男が、巡礼の旅で何かが変わるのか。
「お前はどう思う」とヤイルに尋ねる。
「あいつが?どうだろう、どのみちここに居たって、部屋の中で本を読むだけだ。外にだしたら、いい影響を受けるかもしれない。もっと悪くなるとなると、よっぽど過激な思想が、聖都に蔓延っているってことだな」とヤイルが言う。
ベルべクは再び思案したのちに言う。
「分かった、しかしやつに直接言いに来いといえ。父親の顔をたまには見ろと言え。分かったな?」